精十郎日記

若年性パーキンソン病とDBS(=DeepBrainStimulation脳深部刺激療法)と僕(40代・次男)

自分カルテ⑦~中学生編~

僕は2ヶ月の入院から退院した。

その頃には部活はもう辞めていた。

しばらくは、松葉杖を利用していた。

ギブスは取れていたが、足首を固定するための専用の靴をつくった。

それで、学校へ行く。

そんなだから、車での送り迎えが続いた。

学校生活は、ほぼ問題なかったが、体育は見学するしかなかった。

 

見た感じ、なんだか大怪我をしてしまったようだった。

別に怪我したわけではないのに。

そのことをひとに説明するのが面倒だった。

松葉杖をつき、変な靴履いている、ということで人目が気になった。

後ろで笑い声があると自分のこと笑われている気がした。

 

手術の経過は良好と言われた。

ただ、予感していた通り、足の動きが普通のひとのようになることはなかった。

得体の知れない違和感を感じながら、時間が過ぎていく。

そして、中学3年の夏、また同じ病院に入院。

 

2回めの入院は、目的としては、足首を固定するために取り付けていた金具の摘出手術を行うため。

このときは、さすがに大人たちがいる整形外科病棟に入った。

そのころは、まだ、病棟に喫煙スペースなどがあって、寂しいからそこで大人たちの話を聞くのが、暇つぶしになった。

当然、タバコはまだ吸ってないけど。

今考えると、どんだけそのとき副流煙吸ったかわからない。

 

部屋には大人たちがいたが、あまり出入りが激しくて憶えていることは少ない。

そのなかで憶えているのは、入院当初、同部屋になった初老の男性のことだ。

世間話程度しか話してはいない。

特に親しかったわけでもない。

 

その男性は、下半身不随だった。

寝返りも自力ではできない。

もちろん、ベッド上で用を足すしかない。

ただ、口は達者だった。

ナースに変なオヤジギャグを連発していた。

そして、とにかく鼾がうるさかった。

慣れるまで苦労した。

比較的静かなのは昼間のほうだった。

 

そんな彼には一度も誰ひとりとして見舞いに来なかった。

少なくとも僕が入院している間は。

家族構成までは憶えていないが、天涯孤独というわけではないのは知っていた。

 

2回目の入院は1ヶ月ほどだった。

1回目に比べれば、楽なものだった。

でも、2回目の入院したときの記憶はあまりない。

単純にこの入院はつまらなかったからだろう。

 

新学期には間に合い、卒業する頃には体育の授業も受けられるようになっていた。

でも、得体の知れない不安が消えたわけではなかった。

身体にメスを入れ、何かが変わったのは確かだが、それでその不安が消えたことではなかったのだ。

 

つづく。