2年浪人しているから、卒業したのが24歳。
今思えば、大学卒業した頃には、はっきりとパーキンソン病の歩行障害が出ていた。
すくみ足まではいかないが、つま先で突進するようなことは日常茶飯事だった。
それは、それでいろいろ病院には行ってみた。
だが、整形外科などで、骨には異常はない、でおしまい。
卒業してからは、1年半ぐらいはやれるだけやってみたが上手く続かない。
カラダの無理がきかない。
一応、試用社員で働いたりもしたが、パワハラ・残業のオンパレード。
挙句の果てには、ハードすぎて、足首を疲労骨折したりもした。
プレッシャーは増えるばかり、カラダはいうことをきかない。
いよいよ立ち行かなくなり、都落ちを決意する。
上京してたまには帰郷していたが、帰らない年もあった。
そんな状況で帰ったものだから、自分がみじめでならなかった。
ココロもカラダもボロボロだった。
根拠のない自信なんて微塵もなかった。
帰ってすぐに両親に連れられ病院めぐりがはじまった。
このときも両親には心配かけたと思う。
感謝しかない。
行き着いたのは大学病院の神経内科。
約2週間程度の検査入院をした。
検査の記憶はほとんどない。
ここで、はじめて「若年性パーキンソン症候群」と診断され、薬を処方される。
薬は、メネシット。
数あるパーキンソン病薬のなかで、これだけが自分に合った。
今現在も飲み続けている。
そのとき、この薬が効き目があることがわかった。
おそらく、そのころ1日3錠程度であったと思う。
このとき、落ち込むことはなかった。
むしろ、今まで得体のしれない身体の異常の正体がわかっただけで開放された気分だった。
このとき、パーキンソン病というのは個人差があり、進行性があることにはあまり気にしていなかった。
というより、自覚がなかったかもしれない。
ただ、一生薬を飲み続けることへの漠然とした違和感は感じていた。
「個人差」というところをいい意味で解釈していたと思う。
薬を飲みはじめてしばらくすると、就活を始めた。
多少身体の不安が軽減されたからだ。
そのとき、自分にはやはり外回りの営業職などは向いていない、またはできないのではないかという不安はあった。
だから、内勤の仕事を選んだ。
なんとか就職できた。
心に少し余裕が持てた気がした。
ある程度、その頃には基本的なパーキンソン病の知識はあったのかもしれない。
ただ、そのとき情報を得たツールは、主に書籍だった。
ほぼ全てが「若年性」というワードはなかったと思う。
つづく。