精十郎日記

若年性パーキンソン病とDBS(=DeepBrainStimulation脳深部刺激療法)と僕(40代・次男)

自分カルテ⑬~地元で就職、リストラ、再就職~

地元で就職して、比較的安定していた。

仕事にはある程度やり甲斐を感じることができた。

そのうち、距離的な問題で、大学病院から家に近いところに通院するようになる。

今でもそこには通院している。

 

薬の量は、ほとんど変わらなかった。

ON・OFF(※1)は比較的緩やかで多少の残業もできたいた。

だが、5年ほどでリストラにあった。

人件費削減である。

会社に自分は必要とされていない。

言い返す言葉が見つからなかった。

青天の霹靂とはこのことだと思った。

 

そのときは、落ち込んだけど、すぐ前向きになれた。

なにしろ、身体は動く。

薬を飲めば。

だから、問題なかった。

むしろ、これまでにない働きぶりに自分を褒めたぐらいだ。

 

少し休んでもいいか、と思った。

再就職するまでに、免許を取ろうと思い立つ。

時間はかかったけど、なんとかAT車限定免許を取得する。

最初はMT車にしていたけど、さすがに足が思うように動かなかった。

それで、簡単なAT限定を勧められた。

 

車の運転は、下手くそだったが、それでも免許が取れたときはうれしかった。

世界が広がったような気がした。

あまり遠出はできなかったけれど、たまに気分転換にドライブへ出かけた。

好きな音楽を聞きながら。

 

それから多少苦労はしたが、再就職先がやっと見つかった。

履歴書には、健康について、「特に問題なし」と書いたと思う。

障害者雇用ということではない。

 

2~3年は問題なかったと思う。

徐々に身体の動きが思うようにいかなくなる。

それほど、無理な労働環境にあったわけではない。

残業は、ほとんどなかったし、休みもとれていた。

強いて言うとすれば、ストレスを溜め込んでいたかもしれない。

はっきり憶えていないが、このころから精神安定系の薬を合わせて飲みだしたのかもしれない。

 

記憶ではON・OFFの落差が激しくなった。

実は、このころの記憶が、あまり定かではない。

ジスキネジア(※2)に困っていたということは、まだなかったと思う。

薬の量もそれほど多くはなかったのではないか。

おそらく、メネシット(※3)1日3~5錠ぐらい。

 

いっそ仕事を辞めてしまおうかと同僚に相談したら、傷病休暇がとれることを教えてくれた。

少し休んでみたら、というのである。

同じ頃、かかりつけの病院に相談すると、外科手術をすぐ勧められた。

そして、外科手術について専門の先生を紹介していただき、最初に診断された大学病院に舞い戻ることになる。

 

つづく。

 

※1 ON・OFF・・・薬の効いて状態がよい。動ける、歩ける。→ON。薬の効き目が切れて状態が悪い。動けない、身体が重い、歩けない。→OFF。ちなみに、ジスキネジアは、薬の副作用であらわれる。

 

※2 ジスキネジア・・・不随意運動。自分の意思とは無関係に身体が動いてしまうこと。自分の場合、足、特に左足によくでる。個人差があり、動くところなら全身どこにでもあらわれる。場合によっては、動きが激しいので、ぶつけたりひねったりして危険が伴うこともある。

 

※3 メネシット・・・脳内の不足したドーパミンを補うことで、手足のふるえ、筋肉のこわばり、動作が遅くなったりするのを改善する薬。