精十郎日記

若年性パーキンソン病とDBS(=DeepBrainStimulation脳深部刺激療法)と僕(40代・次男)

自分カルテ⑪~大学生編~

第一志望では、もちろんない。

滑り止めの滑り止めぐらいのところ。

地元の大学も受けたのは受けた。

でも、合格したのは東京の大学。

専攻は、国文学科。

あまり生産性がない、分野である。

教職免許をとるか、司書資格をとるか、そのまま大学院に進むか。

そのいずれにも興味はなかった。

 

というか、教職は人の前に立つものだし、無理。

司書は単位が取れず無理。

研究するにも、そこまでの情熱はない。

まったく、先のことを考えていなかった。

 

東京ではもちろん一人暮らしをしていた。

大学近くにアパートを借りた。

歩くにはちょっと距離があったので、自転車を買った。

自転車で学校まで10分ぐらい。

駅までは、5分ぐらい。

 

正直、やっぱり歩くのは好きではなかった。

歩けなくなる、というより、歩くのが遅い。

小股でちょこちょこ歩く。

靴はいつもつま先がすぐにすり減った。

ただ、走ることはできたので、歩くより走ってしまうことがよくあった。

新宿西口あたりで走っていて、派手に転んだことははっきり覚えている。

 

やめておけばいいのに、やっぱり寂しかったのだろう。

2年のブランクをあけ、高校のときと同じ音楽系サークルに入った。

サークルに入ったこと自体は、友達もできたし、後悔はしていない。

逆に、入ってなければ、何のために大学行ったのかわからなかったと思う。

それくらい、僕にとっては、サークルに入ったのは大きな意味があった。

 

もちろん、サークルでの音楽活動は、ほぼ高校から変わらず。

人前では震えて、まともな演奏技術は身につかなかった。

だが、そんな下手くそな僕をみて、励ましてくれる友達がいた。

これが救いだった。

おかげで、4年間のサークル活動を全うすることができた。

 

 

このころ、一番困ったのは、人と一緒に歩けないこと。

何人かで歩いていても、いつの間にか置いていかれる。

後ろから、他人のようについていくしかない。

後ろにいる自分を気にしてくれる人は、あまりいない。

だから、僕はサークルが終わると、みんなをおいて自転車で一人で帰った。

 

大学もなんとか単位を取得し、卒論もパスして安全圏は確保できた。

これで留年は正直できないと思った。

いろいろな意味で。

だが、まだ先のことが考えられない。

結局、就活というのはしなかった。

僕は、大学を卒業してフリーターになった。

 

つづく。